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竹田市総合文化ホール<グランツたけた>落成記念式典

式 辞

平成30年10月7日

まずもって、いま日本列島を襲っている、まさに天変地異とも言うべき、この悲しい大災害。北海道をはじめとして被災された皆さん方に心からお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復興を心からご祈念を申し上げる次第であります。
さて、本日ここに竹田市民が待ちに待っておりました竹田市総合文化ホール<グランツたけた>の落成記念式典を開催いたしましたところ、本当に多くの皆さん方のご参加ご出席を賜りまして盛大に開催できますこと、主催者として心から厚くお礼を申し上げます。 皆さん本当にありがとうございます。

只今もビデオで紹介がございましたように、わが竹田市は平成2年、平成17年と大水害に見舞われ、特に6年前、平成24年の7月12日、忘れもしないあの九州北部豪雨におきまして、この地に建っておりました旧竹田文化会館が3度目の被災にあいました。3mの高さまで全席が泥で覆われるその悲惨な姿に接して、まさに茫然自失でありました。
ちょうどその年は、竹田市岡藩城下町400年を記念する大イベントが待ち受けているその年でもありました。皮肉にもそのお祝いの前に大きな被災を受けたわけでございます。
打ちひしがれる中で、しかし我等が竹田市民は、まさに不撓不屈の精神を以て、立ち上がってくれたのでありました。私は、あの日のこと、あの当時のことを忘れることはできません。ビデオの中で映し出されたあの惨状のとおりでありました。
しかし、400年祭を迎えるにあたって、多くの若者たち、多くの市民の皆さんから、こういう時だからこそひるんではならん、竹田市民らしく立ち上がって行こうという声が届いてまいりました。
ある一人の青年がつぶやいた言葉を忘れることはできません。「私たちは尊いかけがえのない友人を亡くした。家も流された。田畑も傷ついた。でも、私たち竹田市民は先人から受け継がれてきた歴史文化まで流されてはいません、消えてはいません。今こそ市長、先人の声を聞いて立ち上がりましょうよ。」こんな言葉を届けてくれました。
若者たちはもちろんでありますが、私は、姿なき声、例えば田能村竹田先生も、そして瀧廉太郎先生も、朝倉文夫先生も廣瀬武夫中佐も更には阿南 惟幾大将も、日本の歴史を切り開いてきた誇るべき我らが先人の声が、「立ち上がれ。」私たちにそう大きな勇気を、声を届けてくれたわけでございます。
私たちは、あの400年祭、まさにこのピンチをチャンスに切り替える絶好の機会であることをみんなで申し合わせて、そして、あの400年の記念事業を成功させることができました。私自身忘れることができません。久住のサンホールにおいて、災害に負けてはならん、みんなの力で今こそ新しい時代の幕開けを作ろう、新竹田ルネサンスの始まりである。そう皆さんと共に誓い合ったのがあの日でありました。その日から、全国の皆さんから申し合わせたように暖かい手が差し伸べられました。
本当に多くの皆さんが「竹田市頑張れ」、そして多くの浄財が寄せられました。私は、竹田市民はもちろんのこと、全国から心寄せていただいた皆さん方、今日この会場にお見えになっているドイツの姉妹都市バートクロツィンゲンの皆さん、今日はキーバー市長をはじめ、25名の友人たちが竹田を訪れ、そして皆さんと同じようにこのグランツの完成を喜んでくれています。ドイツの皆さん、ありがとうございます。
打ちひしがれているときに、自分たちで、ドイツで、そしてライプチヒでチャリティーコンサートを行い、その益金を竹田市に送って下さったその温かい励まし、一生忘れることはできません。そういう多くの皆さん方の心が寄せられて、今日を迎えているわけでございます。

さて、竹田市の総合文化ホール・グランツたけた、愛称「グランツ」でございます。 今、竹田高校の1年生になられましたが、江藤 夢さんが中学校3年生の時にこの名前を付けていただきました。ご案内の通り、竹田市ゆかりの瀧廉太郎先生は、ヨーロッパに渡り、しかし病に侵されて帰国。23歳の若さでこの世を去ったわけであります。
しかし、その瀧廉太郎先生の胸の中には、帰国して必ずや、自分は日本の音楽家・作曲家として日本の夜明けを作りたい、そんな決意があったと私は信じています。
もちろんいま先生はこの世におられませんけれども、しかし私は廉太郎ホールと名付けられたこの空間の中で廉太郎先生がその胸に描いた光が、輝きが満ちているのを感じています。まさにグランツの意味する光、そして輝きこそが地域遺伝子となって今の私たちを奮い立たせてくれている。そして、そんなストーリーに乗って、江藤夢さんが、まさに夢と希望にあふれる命名をしていただいたのも、私は神の配剤だなという気がしているところであります。

そして迎えた今日、このグランツたけた、実は災害復興ございますが、30億円を超える31億円という予算が投じられました。議会の皆様方とも議論をいたしました。
どういう規模が竹田市のこれからにとって一番妥当なのか?今日も田部朋二先生がお見えになってますが、市民の皆さんも本当に真剣な議論をしていただきました。そして、その規模が決まりました。幸いなことに、このグランツたけたに対して国の方から、社会資本整備交付金ということで、31億のうち10億に近い補助金がこの竹田市にいただけることになりました。今日お見えの国土交通省九州地方整備局 井浦部長さんをはじめ、本当に多くの皆さん方のご支援をいただきましたし、何より合併をしたご褒美として、起債を打ったその7割が国から帰ってくる、およそ12億円です。結果的に竹田市の負担は4億7千万円でした。こういう仕組みも私たちに力を貸してくれました。
今日お見えの、衛藤征士郎先生、磯崎先生、吉川先生をはじめとする地元の国会議員の皆さま方のお力添えに心からあらためてこの場をお借りして感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
そうして完成をしたこのグランツであります。
昨日、一足先に私どもと懇談をさせていただきました瀧廉太郎記念館名誉館長の三枝成彰先生、日本を代表する作曲家・音楽家でありますし、また日本を代表するプリマドンナとして有名な佐藤しのぶ先生もお出でいただいております。夕べお二人から、このステージに立って、このホールを見て、「本当に素晴らしい。小さいけれども日本を代表する素晴らしいホールが出来た。」そうお褒めをいただきました。
私たちは、この世界に通用する一流の方々から背中を押され、そして賞賛をいただいた。
このことはまさに、過去を誇り、現在を信じ、そして未来に憧れることのできる竹田市の再構築が、ここからスタートできるということを確信した瞬間でもありました。
本当にうれしい限りであります。
そして、これからのグランツがどうあるべきか。私は、このグランツが先人が蒔いてくれたその種、しっかりと光を注ぎ、まさにグランツ、輝きを注ぎ、そして花開かせる。
そのことがこれからの私たちの使命であるというふうに思っています。
あの時にあのグランツに行ったから自分はかけがえのない感動を覚えることができた。
あの日から自分の人生は変わった。
自分の人生は、あれから豊かな価値観を持てるようになった。
こういう拠点がここグランツで立ち上がっていく、そのことを私は心から期待をしているところであります。

時あたかも昨日から、第2回目の国民文化祭が大分県に入りました。
竹田市の町の中でもいろんな催し物が開催されています。
そして、この正面にありますキナーレという多目的室。どうぞみなさんご覧になっていただきたいと思います。
あのノーベル賞作家である川端康成先生が、昭和27年と28年にこの久住高原から竹田市を訪問いただきました。取材旅行をされました。まさにノーベル賞を受賞した時のご講演、美しい日本の私をテーマにした企画展が、いまキナーレで組まれております。そしてその正面を飾るのは、先生がこの竹田市で揮毫していただき、私たちにご教授いただいた言葉であります。
その言葉は「有由有縁」であります。人と人、人と物事の出会いに偶然であることはない、縁があってあなた方は結ばれている。そのことを忘れずに縁を大事にしてください。そんな教えを先生からいただいたのであります。まさに、今ここにお集まりの皆さま方、私もそうでありますが、人生の中において、いい場所でいいところでいい人に出会った。その喜びを紡いでこそ、重ねてこそ、私は今日のこのグランツがある、また私どもがある。そういうふうに感じておるところでございます。
ぜひ、そんな言葉をかみしめながら、まとめに一つだけ。

一流には一流のストーリーが備わっているものだ。こういう言葉もあります。
このグランツを育てていただけるのは、皆さん方であります。
九大の藤原先生を始め、香山設計の皆さん、そして西松建設、さらには松井組さんのJV、多くの皆様方の力によって、この空間が生まれ出されています。感謝申し上げますとともに、そんな力を私たちの力で一流の物に育てていく。そういうストーリーづくりこそが、私たち市民、そして友人の力を借りて、成し遂げていきたい夢であります。
本日のこのグランツの完成を、すべての皆さま方に心から感謝を申し上げて、主催者としての挨拶に代えます。
皆さん、本日は本当にありがとうございました。

竹田市長  首 藤 勝 次