ふるさとの先人をまちづくり、ひとづくり、心そだてに活かす - 地域力を高めるために -

廣瀬武夫について
廣瀬武夫
ここ豊後竹田(旧岡藩)では江戸期、豊後で最も早く教育に力を注ぎ、これまで文化、芸術、政治・経済界など多分野で多くの先哲や逸材を輩出しており、郷土の誇りとなり精神的支えとなっています。その一人が「廣瀬武夫」です。

国際感覚に富み、約束・友情等人間としてのあり方を大切に生活実践し、比較文学の創始と知られる島田謹二氏は、廣瀬武夫を「人品好くして能あり、徳あり、才あり、学あり、風流あり」と評し、今尚、廣瀬武夫の人物や遺徳を偲ぶ人は多く、作家司馬遼太郎をはじめ中曽根康弘元総理等その敬愛者は全国各地に裾を広げており、ライター勢古浩爾氏の近書『新・代表的な日本人』(洋泉新書)や石原慎太郎氏の『私の好きな日本人』(プレジデント)でも廣瀬武夫が取り上げられています。

この時にあたり、廣瀬武夫の真の人間像とその精神を永く後世に伝えるとともに、先人の偉業を通して「街づくり、人づくり、心そだてを進め、歴史を生かしたふるさとづくり」で竹田を再考し、地域の活力源として今後の交流や発展の機会とするためフォーラムを開催します。
人間・廣瀬武夫
生誕の地・竹田での武夫の少年時代

武夫は、10歳まで生誕の地竹田で過す。幼いころは涙もろく、泣き虫と言われたが、成長するにつれ暴れん坊となる。廣瀬家眼下の白瀧川で泳ぎ、水泳が得意だった。茶屋の辻の「河童小僧」の異名もあった。

西南戦争と廣瀬家

明治10年、竹田は西南戦争の舞台になり、廣瀬家は全焼。父が単身赴任していた飛騨高山に一家をあげて移り住む。

廣瀬家竹田へ帰る

廣瀬家が郷里竹田へ帰ったのは、父・重武が天草の裁判所を退官した明治19年。このときの廣瀬家は溝川で、道を挟んだ斜め向かいが、瀧廉太郎宅の直入郡長官舎だった。武夫は、明治25年、1週間の休暇で15年ぶりに故郷竹田に帰省。当時武夫は25歳、廉太郎は14歳。

武夫と瀧廉太郎

後に武夫は、ロシアのサンクトペテルブルグに留学。廉太郎はドイツのライプツィヒ音楽院に留学。廉太郎は、留学中の武夫に「荒城の月」の楽譜を送る。武夫はロシア人にピアノ演奏を依頼、聴衆は感動。武夫は作曲は瀧廉太郎という故郷竹田の後輩と伝える。日本人の作曲と信じてもらえないほどの高い評価を得た。

ロシア留学とロシア文学

留学後の武夫は、ロシア語を猛勉強し、ロシア文豪の小説も読む。プーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイを読む。軍人社会に限らず、幅広い人々との交流を大切にした。武夫の軍人としての凛々しさ、文人としての教養豊かで紳士的な姿、人間としてのやさしさや何事にも一途な姿勢はロシア人の共感を呼ぶ。

蔵書家・文学者・書簡家

武夫は35年10か月という短い生涯で、日本軍人から想像しがたいほどの蔵書家であり、日本の漢詩文、文学を読みあさる。 演習航海の記録「航南私記」など紀行文学にも優れ、文学者としての魅力も備えた。書簡家を超えるほどの膨大な書簡を記し、書簡文学の書き手でもあった。

廣瀬家墓地

茶屋の辻の廣瀬武夫生誕地そばの風光明媚な地に、市指定史跡「廣瀬中佐の墓」がある。武夫の姪・馨子の夫である廣瀬末人、廣瀬武夫、父・廣瀬重武の墓が並ぶ。

国際人・廣瀬武夫と竹田

廣瀬武夫は、日露戦争の舞台の裏で、国際感覚に富み、約束や友情など人間としてのあり方を大切にして生きた人物でもある。比較文学の創始として知られる島田謹二氏は、「人品好くして能あり、徳あり、才あり、学あり、風流あり」と評した。

エピソード



亡き母に代わって武夫ら兄弟を育てたのは祖母・智満子。典型的な武士の妻で、武夫も厳格にしつけられました。武夫は智満子を敬愛し、明治29年、智満子の80歳のお祝いに長崎から2枚の肖像写真を送っています。筋骨たくましい裸の写真には「吾を生むは父母、吾を育むは祖母…」の言葉が添えられていました。普通であれば、裸の写真を送るなど、軍人のすることではないのでしょうが、この写真には「泣き虫の武夫が、こんなにたくましく成長しました。

ご安心ください」という、祖母への深い思慕と感謝の念が込められていたと思われます。 また、祖母の死に対しては、ロシアから父重武に宛てた手紙に「御祖母様の御長逝こそ武夫に生来かつてなかった最大の悲痛……海よりも深く山より高き、ただならざる御高恩……」と、悲しみにくれる気持ちを書き記し、十日十夜泣き明かしたそうです。

国際人・廣瀬武夫と竹田