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瀧廉太郎とは

瀧廉太郎

明治12(1879)年8月24日、父吉弘・母正子のもと東京市芝区南佐久間町(当時)生まれる。

父は官庁に勤めていたので、転任のため横浜、富山、東京、大分と転居。
そして明治24(1891)年12月、一家全員で竹田へ移る。
翌年25年1月、直入郡高等小学校第二学年に転入し、5月には第三学年に進級する。
当時、瀧廉太郎は12歳。父が直入郡の郡長だったので、住居は武家屋敷が郡長官舎となり、広い敷地に重厚な門と土塀がめぐらされていた。
瀧廉太郎の部屋は奥の6畳の間で、ここから約1キロメートル先の小学校に通学。
学校の裏にある岡城跡で遊んだり、石垣に座り尺八を吹いたりしていたという。
竹田時代は、廉太郎にとって多感な少年期だった。

明治27(1894)年5月に上京し、芝唱歌会に入会。
東京麹町平河町の従兄大吉の家で暮らし、同年9月には東京音楽学校(予科)へ入学した。
翌年本科に進学し、明治30(1897)年には脚気を患い竹田に戻り静養。
この頃「散歩」を作曲。翌年7月9日、本科を首席で卒業。同年9月には研究科へ進学した。
明治32(1899)年、音楽学校嘱託となり、授業補助を担った。
この年に「四季の龍」を作曲。
翌年にはピアノ及び作曲研究のため、ドイツ留学を命ぜられ明治34(1901)年4月に横浜港を出航。
同時期に「中学唱歌」を出版、「荒城の月」、「箱根八里」などを作曲する。
翌年、結核となり東京へ帰着。

「別れの歌」を作曲後、大分町にて病気療養。
その後、「荒磯」「憾(うらみ)」作曲。
明治36(1903)年6月29日、大分市内で病死。僅か23歳10カ月。
一閃の光芒にも似た短い生涯を閉じた。
 

瀧廉太郎 年譜

明治12年(1879)8月24日 東京市芝南佐久間町2の18番地に生まれる
(旧佐伯藩主毛利高謙の江戸屋敷内侍長屋)
〈家族〉
  父:吉弘(38歳)内務省出仕
  母:マサ(29歳)
  祖母:ミチ(72歳)
  長姉:リエ(10歳)
  次姉:ジュン(4歳)
明治15年(1882)1月26日2歳 妹(3女)スミ誕生
明治15年(1882)11月4日3歳 父吉弘、神奈川県書記官に任ぜられ、一家は横浜市伊勢山の官舎へ移る
明治17年(1884)11月27日5歳 弟(2男)節次郎誕生
明治19年(1886)5月6歳 神奈川県師範学校付属小学校に入学
明治19年(1886)9月7歳 父吉弘、富山県書記官に任ぜられ、富山市へ転住富山県師範学校付属小学校に転入
明治21年(1888)5月1日8歳 一家は富山を離れ東京へ向かう
明治21年(1888)5月6日 東京市麹町尋常高等小学校尋常科3年に転入
明治21年(1888)7月11日 妹(4女)イク誕生
明治22年(1889)3月14日9歳 父吉弘、大分群長に任ぜらる廉太郎、祖母ミチ、長姉リエと共に残留
明治23年(1890)3月10歳 東京市麹町小学校尋常科卒業後、高等科進学(当時は尋常科4年、高等科4年)
明治23年(1890)3月7日 祖母ミチ麹町にて没(83歳)
明治23年(1890)4月 廉太郎、大分町の両親の元に呼び寄せられ大分県尋常師範学校付属小学校高等科1学年に転入
明治23年(1890)5月30日 長姉リエ麹町にて病没(21歳)
明治23年(1890)8月17日 妹(5女)トミ誕生
明治24年(1891)11月27日12歳 父吉弘、直入郡長に任ぜらる一家は12月上旬竹田町の群長官舎に転住
明治25年(1892)1月8日 直入郡高等小学校2学年に転入姉(2女)ジュン、高等小学校2学年に転入。
27年2月退学妹(3女)スミ、直入尋常小学校4年生に転入。
25年3月卒業弟(2男)節次郎、直入尋常小学校2年生に転入。
27年3月卒業
明治26年(1893)10月11日14歳 弟(3男)孝三郎誕生
明治27年(1894)4月30日 直入郡小学校高等科卒業
明治27年(1894)5月 上京。芝唱歌会に入会住居東京都麹町平河町従兄大吉の家
明治27年(1894)9月15歳 東京音楽学校(予科)入学
明治28年(1895)7月6日 予科終了
明治28年(1895)7月 暑中休暇にて竹田帰省同窓会出席
明治28年(1895)9月16歳 本科(専修部)進学
明治28年(1895)9月28日 父吉弘、直入郡長を依願免職
明治29年(1896)7月 竹田町帰省同窓会出席
明治29年(1896)12月12日17歳 学友会音楽会にてピアノ独奏(初演ラインベルガー作曲バラード)
明治30年(1897)2月 「砧」作歌
明治30年(1897)3月 「日本男児」作曲雑誌「おむがく」67号に発表。
明治30年(1897)7月 「春の海」作曲
明治30年(1897)8月 竹田町帰省、脚気保養。「散歩」作曲。10月雑誌「おむがく」72号に発表
明治30年(1897)12月18歳 「枯野の夕景」作歌。雑誌「おむがく」75号に発表
明治31年(1898)7月9日 本科(専修部)首席卒業
明治31年(1898)7月 竹田町帰省。同窓会出席
明治31年(1898)9月1日19歳 研究科入学
明治31年(1898)10月15日 妹(4女)イク没(11歳)
明治32年(1899)9月13日20歳 音楽学校ピアノ授業嘱託(月給10円)
明治32年(1899)10月30日 音楽学校授業補助を命ぜらる(月給10円)
明治32年(1899)11月 「四季の瀧」作曲東くめ作歌。「尽せや」はじめ9曲習作
明治33年(1900)6月12日 ピアノ及び作曲研究の為満3ヶ年ドイツ留学を命ぜられる
明治33年(1900)10月1日21歳 ピアノ曲「メヌエット」作曲
明治33年(1900)10月7日 麹町区博愛教会にて洗礼を受ける。
明治33年(1900)11月1日 合唱組歌「四季」(花、納涼、月、雪)を出版
明治33年(1900)月不明 「古城」作歌
明治34年(1901)3月30日 「中学唱歌」(荒城の月、箱根八里、豊太閤)出版
明治34年(1901)4月6日 ドイツ留学のため横浜出航(ケーニヒ・アルベルト号に乗船)
明治34年(1901)7月20日 「幼稚園唱歌」(水あそび、鳩ぽっぽ、雁、お正月他)出版
明治34年(1901)10月1日22歳 ライプティヒ王立音楽学院受験・合格
明治34年(1901)12月2日 聖ヤコブ病院に入院
明治35年(1902)7月9日 文部省より帰国を命ぜらる
明治35年(1902)8月24日23歳 ベルギー国アントワープ港出航。
ロンドン市テームズ河畔にて、土井晩翠・姉崎正治と劇的会談。
明治35年(1902)10月17日 横浜港に帰着
明治35年(1902)10月30日 「別れの歌」作曲
明治35年(1902〉10月31日 「水のゆくえ」作曲
明治35年(1902)11月23日 従兄瀧大吉没(42歳)
明治35年(1902)11月 大分町にて病気療養
明治35年(1902)12月29日 「荒磯」作曲
明治36年(1903)2月14日 「憾(うらみ)」作曲
明治36年(1903)6月29日23歳 大分市稲荷町339にて死去
大分市東新田(現金池町)万寿寺に葬られる。
法名「直心正廉居士」