1. HOME>
  2. 瀧廉太郎記念音楽祭>
  3. 瀧廉太郎記念音楽祭の歴史

瀧廉太郎記念音楽祭の歴史

「瀧廉太郎記念音楽祭」の誕生には、当時大分県社会教育課、妻城良夫氏(故人)のご尽力がありました。その妻城さんの私記をご紹介します。

楽聖「瀧廉太郎」記念音楽祭誕生への私記

悪夢のようなあの壮絶悲惨な太平洋戦争が終わり、新しい文化国家日本に生まれ変わってもう50年になる。

この平和で幸せな今日では、小学生でも「荒城の月」と云えば直ぐ瀧廉太郎と答える程「楽聖瀧廉太郎」を知らない人はほとんど居なくなった。

しかし今から七十余年前、私たちが幼稚園や小学校時代に朝夕親しみ愛唱していた「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」「お正月」などを始め「荒城の月」に至るまで、これらの歌の作詩者や作曲者の名前など先生から聞いたこともなく、まして瀧廉太郎のことなど町の人々の話題にも上がらなかった。

私は竹田高等小学校卒業後昭和3年大分県師範学校へ進学。
その頃からいよいよ音楽に熱中し種々な音楽書を読みあさった。
そして私たちが今まで何も知らずに愛唱していた唱歌の作曲者が、日本が生んだ薄命の天才作曲家瀧廉太郎と云う人であることを初めて知った。

そしてさらに従来の我が国の教育唱歌のほとんどが外国の既存のメロディーを借りて、新体詩調の難しい歌詞をはめこんだ和洋折衷形のものだったのに対し、「日本人の作詩に、日本人が作曲した、日本の唱歌を」と提唱、実践された近代日本音楽教育界の偉大なる功労者であることを知った。

偶然も驚いたことに奇しくも私の母校、竹田高等小学校の大先輩であることを知ってすごく感動した。
後日この事を私が小学校の頃からお世話になっていた「竹田おとぎ会」の会長、杉原有蔵先生に得意そうに話した途端「ほう、滝君はそんな素晴らしい才能のもちぬしだったんだなァ。彼は僕の竹田高等小学校時代の同級生で、その頃から音楽好きでその上、絵の上手い大人しい男だったよ・・・」とその当時の思い出話を逆に聞かされてびっくり。
それ以来益々瀧廉太郎に対し親近感と敬慕の念を抱くようになった。

たまたま瀧先生の令妹安部トミさんが大分市中島にお住まいである事を聞き、ご無礼を省みずピアノに熱心な親友後藤初男君を誘って御宅に参上。
親しくお目にかかり、在りし日の廉太郎兄さんの思い出話や数々の秘蔵の遺品を拝見。特に瀧先生が自分の余命少なきを悟り、病魔と闘いながら作曲され絶筆となったピアノ曲「憾」の楽譜を手にとって拝見した。
そしてこの楽譜に秘められた瀧先生の無念の心中を拝察、万感胸に迫り感動感涙。早速その帰途後藤君と一緒に市内の万寿寺境内に眠る瀧先生の墓に詣り、生花を献じて御冥福をお祈りした。

その当時日本の著名な音楽家たちは、みんなこの墓とその傍らに東京音楽学校同窓会が建立した「嗚呼天才之作曲家瀧廉太郎之碑」に参詣。竹田の岡城址を訪れる人はいなかった。
無理もない。瀧廉太郎の非凡の才能・作品そのものについては、すでに東京音楽学校関係者、音楽評論家等の間では高く評価、認識されていたが、残念ながら余りにも若く急逝したため、彼の少年期、特に竹田高等小学校時代のことまで詳述した公刊の資料も乏しく、知る人は極めて少なかった。
まして名歌「荒城の月」と「岡城址」の因縁など知る由もなかった。

昭和9年10月の事である。
音楽に深い造詣と愛情をもっておられた竹田出身の日本ポリドールレコード株式会社創立者社長の阿南正蔵氏がそれを遺憾に思われ、岡城址本丸跡に私費を投じて土井晩翠先生自筆による「荒城の月詩碑」を建立された。
それ以来徐々に東京の音楽関係者や識者の間に名曲「荒城の月」の発生地として、竹田町の岡城址が知られる様になっていった。
こうして荒城の月詩碑が建ってから8年後の昭和17年6月、東京神田の春陽堂から出版された瀧廉太郎をモデルにした、木村毅氏の小説「荒城の月」の中に始めて竹田岡城址の写真が掲載され、全国の読者の知るところとなった。
竹田町ではその年の10月急遽町主催で始めて「瀧廉太郎40周年祭」を岡城址の「荒城の月詩碑」前で神式で挙行。
仲村町長の祭詩俸唱。
仙台から遠路態々御来賓の土井晩翠先生の即興詩朗読。音楽学校の学友新清次郎氏・東京の演芸画報社長の安部豊氏を始め、地元関係者の玉串宝奠等あり、極めて厳粛で簡素な式典であった。

ー中略ー

私は日中戦争が日毎に激化拡大傾向にあった昭和11年夏、教職を辞して学生時代からの夢であった声楽科を志し上京、日本ポリドールレコード会社に入社することになった。
阿南社長に私を推挙斡旋、この幸運なチャンスを与えてくださった人が代官町の黒川病院長黒川健士先生御夫妻であった。
私は入社と同時に阿南社長の特別の御配慮で、当時日本の名ソプラノ歌手で東洋音楽学校教授関種子女史に師事、声楽の本格的勉強を始めた。
しかしその直後からかねて懸念していた日中戦争が益々激化、ついに第2次世界大戦にエスカレートしてしまった。
私もその激流に巻き込まれて南方各地を転々。
そして最後はマレー派遣第29軍司令部で終戦。
更に無人島レンバンに抑留の身となったが昭和21年5月復員、11年ぶりに故郷竹田の地を踏んだ。
その後幸運にも大分県社会教育課に就職、県下青少年層の指導育成の業務を担当することになった。
時あたかも占領軍司令官マッカーサー元帥の指示により、戦前の天皇中心の明治憲法が、主権在民の自由・平等・平和の民主主義憲法に新しく改正公布された直後で、国の教育方針も180度激変。戸惑う若者たちに夢と希望と勇気を与えることが急務だと私は痛感していた。
たまたま私の小学校時代の恩師で既に各地の校長を歴任、定年後竹田町で教育委員や司法保護士等の公務のかたわら、町の文化運動に熱心だった谷敏夫先生から、竹田町で近く「瀧廉太郎45周年忌」の式典計画のあることを聞いた。
私は以前から竹田町で毎年春ごろ「さくら祭り」とか「岡城祭」とかが開催されていた事は知っていた。

しかしこの催しはあくまで近隣町村を対象に、町の商工業の繁栄隆昌を目的とした所謂「おまつり」であって、郷土の生んだ楽聖瀧廉太郎の芸術的偉業や功績はその賑わいの陰に埋没し、少しも顕彰されておらず常々残念に思っていた。

そこで私は今後の45周年忌式典を、前回の40周年祭同様のその場かぎりの法要式典に終わらせることなく、この祭典を起点としてもっとスケールの大きい、大分県と竹田町共催による年中行事として「楽聖瀧廉太郎記念音楽祭」を創設、毎年継続して開催する様にしたらどうだろう?
それは取りも直さず敗戦のショックに戸惑う青少年たちに、夢と勇気を与え、また一般県民の音楽文化昴揚興隆にも役立つのではなかろうかと考えた。

そしてこのプランを細田知事に直接進言した。
知事も「平和文化国家再建のためにも時宜を得た名案だ、しっかりやってくれ給え」と快諾された。
私は早速竹田町の各先生を通して酒井町長を始め、地元関係諸賢と相談して頂き全面的なご賛同を頂くとともに、かねてから親交の朝日新聞大分支局長大串政隆氏やNHK大分放送局長牧眞氏にもこの趣旨を説明、強力なバックアップを得てその準備に着手した。
県側は別府市公会堂に於ける音楽祭。竹田町側は岡城址に於ける記念式典並びに音楽祭他をそれぞれ分担、その準備に全力を傾注した。

こうして瀧廉太郎45周年忌に当たる昭和22年6月29日の前日、主催:大分県・竹田町・史跡岡城跡保存会。後援:朝日新聞大分支局・NHK大分放送局の下に別府市公会堂で昼夜2回「瀧廉太郎追悼45周年記念音楽祭」を挙行した。

昼の部は午後1時から県下学校音楽大会を開催。
細田知事の開催の辞、土井晩翠先生の挨拶に続いて私の指揮で「荒城の月」を全員合唱。大分県師範学校・中津・別府・大分・佐伯・三重各高等女学校を始め中・小学校代表による独唱・合唱・ピアノ等の熱演が繰りひろげられた。

夜の部は午後6時開演。細田知事と土井晩翠先生の挨拶に続いて別府マンドリン協会・昼の部の入賞者・木村弦楽四重奏団の演奏の他、竹内永子女史のバレーや名ソプラノ歌手佐藤美子女史の特別出演もあり、この前夜祭は大盛況裡に終わった。

そして翌29日の御命日当日は、午前11時から岡城址本丸跡の特設ステージで岩戸神楽を奉納。午後1時から「荒城の月詩碑」前に設置された祭壇で仏式による追悼式典を挙行。細田知事、酒井町長、土井先生などの式辞・焼香があり、最後に瀧先生令妹安部トミさんの声涙ともにくだる感謝のことばがあった。

続いてこの日のために私が精魂こめて作詩した朗詠詩「古城秘賦」をベートーベンの交響曲「運命」のレコードに載せて朗詠、これに合わせてバレリーナ竹内永子女史が振り付けし独舞を奉納して式典を終わった。

つづいて特設の野外ステージに移り記念音楽祭を開催。
竹田マンドリン協会、それに前日の学校音楽大会の入賞者に加えて地元の小・中・高校代表等の熱演で聴衆を魅了した。

そして夜は午後6時から竹田公会堂で、別府の前夜祭同様の大音楽祭を開催、細田・土井両氏のあいさつにつづき、昼の岡城址音楽祭出演者に加えてソプラノ佐藤美子女史が登場。
「秋の月」「荒城の月」等瀧氏の名曲を始め「君よ知るや南の国」更にお得意の歌劇カルメンの「ハバネラ」等を熱唱。記念音楽祭にふさわしい荘重さと、会場を揺るがす万雷の拍手の中に目出度く幕を閉じた。
又この音楽祭の他に岡城址では名月観賞会が催され夜遅くまで大勢の人々で賑わった。

最初のことであり準備期間も短かったのにもかかわらず、竹田町全町挙げての協力で町内は万艦色。国鉄はこのお祭りのために別府駅から竹田駅まで特別臨時列車を運行するなど未だかつてない大賑わいの祭りとなった。
時あたかも去る5月3日、戦争放棄・恒久平和の新日本国憲法が施行され「文化国家新日本」の建設がスタートしてわずか1ヶ月。瀧廉太郎45周年忌に当たるこの6月29日。

薄命の楽聖瀧氏を偲び非凡の芸術を讃え祭り新しき日本の標旗と仰ぎ永劫にその勲にこたえまつらむ

との願いを込めて「瀧廉太郎記念音楽祭」を創設・開催できたことは真に意義深く、皆様と共に最高の慶びとするところである。
なお昭和23年開催の第2回音楽祭の実施に際しては初回の体験を生かし、瀧廉太郎の名に恥じない立派な音楽祭とするため、関係各位と協議の上次の各項を設定、より内容の充実・強化に努力した。

(1)開催期日の設定
瀧先生の命日6月29日が望ましいが、梅雨期と重なるため今後は中秋名月の頃とする。よって第2回音楽祭は10月16・17日とする。

(2)岡城址に野外音楽堂を建設
荒城の月と瀧廉太郎を象徴するため、本丸跡に新設する。

(3)音楽祭出演者選定コンクール創設
・大分県学生コンクール・大分県青年音楽コンクール

(4)ニュース映画による全国紹介
旧知の日本ニュース福岡支社の上砂泰蔵氏の協力を得て、音楽祭の実況、並びに岡城址・竹田町の景観を撮影の上、全国映画館で上映。
テレビの無い当時、映像として始めて、荒城の月・岡城址・瀧廉太郎が三位一体のものである事を強くアピールした。

(5)NHK熊本放送管弦楽団招演
九州唯一の管弦楽団フルメンバー実演

(6)NHK大分放送局のラジオ実況録音放送
以上の計画にそって総力を挙げて取り組んだ結果、第1回音楽祭をはるかに越える大反響を呼び成功に終わった。

こうしてどうやら音楽祭の形態も整い軌道に乗ってきた。
現在も開催時期はこの時期で定着し毎年開催されているが、岡城本丸に建設を予定した音楽堂は、城址が国指定史蹟などの関係から、本丸よりさらに東に位置する三楽亭跡に新築された。
その音楽堂で開催された音楽祭も昭和38年を最後に、以降は竹田高等学校体育館、竹田文化会館へと会場を移している。

また、コンクールにおいても、翌24年の第3回大会は九州各県高等学校声楽コンクールに、第6回コンクール以降は西部日本高等学校独唱コンクールへと規模が広がり、平成4年には全日本高等学校声楽コンクールへとグレードアップが図られている。

ただあの日あの時この一粒の「音楽祭の種子播き」に一緒に汗を流してくださった先輩・同志の多くの方々は、現在もなお継続・盛大に開催されている音楽祭を見ることなく、すでに天国にあり、誠に痛恨痛惜の極みである。

願わくは今後とも主催者・後援者そして市民の方々の愛情と熱意と御盡力によって、益々その内容を充実され、ハイレベルの権威ある「瀧廉太郎記念音楽祭」として大成されんことを祈念し私記のペンを措くことにする。

平成7年6月29日
松戸の草庵にて 妻城良夫(83歳翁)