名勝「落門の滝」

豊後竹田駅ホームより見た落門の滝(竹田市観光ツーリズム協会提供)
名勝「落門の滝」が国登録記念物に登録されました。
落門の滝は、文化財保護法(昭和25年法律第214号)第132条第1項の規定により、令和6年2月21日付けをもって文化財登録原簿に登録記念物(名勝地関係)として登録されました。
(官報告示 令和6年2月21日付け文部科学省告示第21号)

落門の滝近景(竹田市観光ツーリズム協会提供)
「落門の滝」について
竹田城下町の北側、稲葉川を渡った対岸の下木(したぎ)地区に豊後竹田駅が所在し、その背後にそびえる岩壁から美しく流れ落ちる「落門(らくもん)の滝」と呼ばれる一筋の滝があります。その実態は岡藩時代に整備された城原(きばる)井路の水流で、幹線延長7.7kmにも及び流れてきた水が高さ約40mの岩壁を流れ落ちた後、豊後竹田駅一帯にかつてあった水田を潤していました。

豊後竹田駅背後の岩壁を流れ落ちる「落門の滝」

夏季の様子

冬季の様子(凍った滝が見れる場合も・・・)
「落門の滝」その名称の由来とは?
当時14歳、竹田を訪れた広瀬淡窓を魅了
滝口のある崖上の地域を「滝の上」といい、滝つぼのある崖下の地域(豊後竹田駅の周辺域)を「下木」と言います。竹田町とは稲葉川で隔てられているため、厳密に言うと「町」には含まれず、岡藩時代はこの辺りに下木村がありました。とは言え、竹田町に隣接し、城下町から北側に出る重要なルートがこの地区を通過した他、西光寺や円福寺などの岡藩主中川家ゆかりの寺院が所在し、大正時代に豊後竹田駅が開業し、実質的に竹田町の玄関となった地域です。そして、落門の滝は四方を丘陵と岩壁に囲まれた竹田特有の城下町の景観を演出する重要な構成要素の一つとなっています。
この落門の滝は「下木の滝」「布引の滝」「雲井の滝」「不動の滝」などとも呼ばれ、多くの人々に親しまれてきました。
絵図にもはっきりと滝が描かれています。
岡城々下家中図(部分、天明7年)竹田市歴史文化館蔵
駅前の広瀬淡窓漢詩碑
豊後竹田駅前の竹田橋のたもとに日田咸宜園の創設者である広瀬淡窓(1782-1856)の漢詩碑(昭和44年(1969)建立)があります。
碑には「落門の滝」の呼称の由来となった漢詩が刻まれています。
淡窓の著書『懐旧楼筆記(巻五)』(『淡窓全集』上巻 日田郡教育会 大正14年)によると、
寛政7年(1795)の4月、淡窓は14歳の時に、かつての師、松下筑陰に再び学ぶため、筑陰が居る佐伯へと旅立ち、その旅路の途中に竹田町に3泊しました。淡窓はこの時の竹田滞在について、後に「懐旧」して、次の漢詩を詠みました。
千巖萬壑入岡藩
士庶肩摩道陌喧
絶壁雲懸公子館
斷崖泉落太夫門
いくつもの険しい岩山と深い谷を越えて、岡藩に辿り着いた、武士や庶民が肩をすりあわせる程行き交い、町の通りはとても賑やかである、絶壁の上に雲がかかるほどに高くかまえた「公子」の館があり、断崖を流れる滝は「太夫」の屋敷の門に向かって流れ落ちている
という意に解釈することができます。「落門の滝」の呼称は、この第四句の「斷崖泉落太夫門」に由来しているとされています。
余談ですが、「予コゝニ於テ。始テ城郭ト云フ者ヲ見ル。」と淡窓は記しています。つまり、淡窓が生まれて初めて見た城郭が岡城でした。
岡城城下町の風致景観の要を成してきた「落門の滝」の卓越した存在感とは?
中条唯七郎が見た「落門の滝」
文化・文政期に信州埴科郡森村(現在の長野県千曲市森)の名主を務めた中条唯七郎(1773-1849)が記した旅の見聞録『九州道中日記』という史料があります。
唯七郎は岡藩の養蚕事業に関わった中条八郎左衛門(?-1828)の甥にあたります。八郎左衛門とその子どもの粂吉は、養蚕の技術指導者として岡藩の養蚕導入計画に協力することになりますが、八郎左衛門が文政11年(1828)に瀬戸内海の船中で亡くなり、岡藩の外港である三佐港の尋声寺に葬られました。その後、粂吉がひとりで事業を引き継ぐことになりましたが、八郎左衛門の供養と死去にともないお世話になった人々への挨拶回りのため、唯七郎も粂吉に同行し岡藩へ行くことになりました。この唯七郎の九州旅行は天保2年(1831)8月1日~12月27日にかけて行われ、岡藩にて八郎左衛門の供養と挨拶を終えると、唯七郎は九州の各地を見聞して歩きました。
唯七郎一行は、岡藩滞在中の9月9日に大船山の入山公募所(岡藩3代藩主中川久清の墓所)を参詣しました。その帰路にあたる19日に、「赤ざこ町」(現在の赤坂)を通り、城下町へ下りてきた時に目の当たりにした景観について、唯七郎は次のように記していますが、城下町周辺の特徴を的確に捉えたものとなっています。
右ハ巌山茂木、左ノ方ハ御家中、其地勢の幽雅住居、一入面白し、惣而、此国の地勢、巌山絶壁の地景、低山入込、谷合ノ絶曲筆ニ尽し得す。只眺望の心にあるのみ。
その後、唯七郎一行は竹田町にて1日過ごし、21日には城原八幡社の参詣のため、城下町を出立します。一旦赤坂へ上った後に平村へ抜けるルートをとりました。唯七郎は途中で観た「落門の滝」について、次のように記しています。
扨亦、此所左りにハ用水川ありて、此道に添ふて向ゟ流下し来る。前筆の御茶屋場より少し上り来る時、道添川ニ瀧 飛泉也 あり。元来此川水流末ハ下タ木巌頭に懸ッて数千丈を落る飛泉と成る。
文中の「用水川」とは城原井路のことで、「瀧」は落門の滝のことです。滝の様相について「此川水流末ハ下タ木巌頭に懸ッて数千丈を落る飛泉と成る」と表現しています。このように、城下町周辺の「巌山絶壁」の地形と「落門の滝」が織りなす唯一無二の景観が旅行者である唯七郎を魅了していたことが史料からもわかります。
岡城々下家中図(部分、天明7年)
竹田市歴史文化館蔵

岡城々下家中図(部分、寛政7年)
竹田市歴史文化館蔵
寛政訂正豊後州郡図第五 直入郡(部分図)
寛政年間、竹田市歴史文化館蔵
岡領全図(部分図)、文化5年(1808)
個人蔵(竹田市歴史文化館寄託)
佐久間竹浦の「落門の滝四季真景図」
佐久間竹浦筆《落門の滝四季真景図》大正13年(1924)竹田市歴史文化館蔵
作者は竹田出身の南画家佐久間竹浦(1876-1925)です。京都に出て同郷の南画家田能村直入(1814-1907)と田近竹邨(1864-1922)に南画を学び、郷里に戻ってからも南画制作を続け、水石会にて後進を指導しました。また、『荒城の月』などを作曲した音楽家瀧廉太郎の親友としても知られています。豊後竹田駅の開業は大正13年(1924)10月15日で、竹浦がこの真景図を描いたのが8月のことであるから、失われていく風景を描き残したかったのかもしれません。
花木の彩りや田植えから収穫に至るまでの農作業の様子は、四季の移ろいを伝え、画面をより華やかにしています。古町に至るまで商店や家屋が軒を連ね、多くの人々が行き交い、とても賑やかな様子が画面から伝わってきます。円福寺、妙見寺、西光寺の寺院をはじめ、滝の西側には下木石仏が、東側には下木火伏稲荷が描かれています。画面右側、西光寺の背面にそびえる岩山の上には一本松があります。今も残っている風景と失われてしまった風景が描かれ、「落門の滝」周辺の大正時代の風景をこの六曲一隻の屏風絵で知ることができます。画面の中央に雄大に流れ落ちる「落門の滝」こそが、この景の主役であり、その存在感の大きさを物語っています。
村上臥牛の「落門之瀧図」
村上臥牛筆《落門之瀧図》昭和62年(1987)竹田市歴史文化館蔵
実は農業用水利施設である城原井路の末流で、類を見ない人工の瀑布である。
城原井路(木原井手)とは?
城原(きばる)井路は寛文元年(1661)から翌年にかけて整備された灌漑施設です。
大野川上流域にあたる竹田市域では、豊富な水資源があるにも関わらず、川底が深く落ち込むうえに、地形の高低差が激しいことから、古くから田畑への用水に苦労してきました。井路(井手)を用いて遠くの水源から用水する技術が発達し、江戸時代より近代にかけて大規模な灌漑事業が進められてきました。その結果、白水溜池堰堤水利施設(白水ダム)(国指定重要文化財)、若宮井路笹無田石拱橋(国登録有形文化財)、明治岡本井路(石垣井路)(国登録有形文化財)など多くの農業遺産が誕生し、今も現役で田畑を潤し続けています。
「木原井手(きばるいで)」として城原井路が誕生したのは、岡藩3代藩主中川久清(1615-1681)の頃です。万治3年(1660)、久清は旧知の儒学者熊沢蕃山を岡藩に招き、家臣を対象に「経済ノ儀」という講義を行いました。この蕃山の指導に基づき「井手」の開削事業が進められ、城原井路をはじめ、多くの「井手」が標高差のある山間地に苦労して開かれた結果、その沿線にひろがる谷間の傾斜地に棚田が発達していきました。
城原井路は改修を繰り返しながら現在に至り、その総延長は131km(幹線7.7km、支排水路109km)にも及びます。その起点は稲葉川の支流である久住川に築かれた神田(こうだ)頭首工で、落門の滝の北西約7.5kmの城原地区にあります。幹線となる水路は、現在の国道442号線に沿うような形で南東へ下り、平(ひら)村を通った後、「滝の上」と呼ばれる地域に至り、滝となって下木地区へ流れ落ちています。

3代藩主中川久清公(碧雲寺蔵)

城原神社の前を流れる城原井路
水が流れ落ちていない時もあります。
城原井路は全国水土里ネット(全国土地改良事業団体連合会)の疎水百選にも選ばれている現役の灌漑施設です。井路の管理を行っている城原井路土地改良区が水量の調整等を行っています。そのため、末端となる落門の滝では、農繁期など時期によっては、水が流れ落ちない時もあるし、水量が極端に少ないときもあるというように、日ごとに滝の見え方は変化します。人工の滝であるとともに、全国的にも非常に珍しい特徴を持った滝と言えます。
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更新日:2025年03月11日